2020/10/22

見た瞬間に心が反応する絵、というものがある。

 

たとえば美術館の片隅で、

たとえばたまたま手に取った画集をぱっと開いたその瞬間に、目が合う絵。

でもそれは、よくよく分析してみると、

なつかしさ、つまり記憶に結びついているものだったり、

好みのモチーフや配色が関係していたりする。

記憶も好みも自分だけのものだから、

この体験は、大いに個人的だ。

 

しかし、聞いた瞬間に心が反応する音楽、だったらどうだろうか。

もちろん、なつかしい曲、好みのコード進行の曲、というものはある。

それでも。

たとえば規則的なリズムがズンタン、ズンタン、ときて

そこにシンプルな和音、ドミソでもいい、そういう和音がチャンチャンチャンと鳴る、

それだけでもそれはもう音楽だ。

好みのリズムでなくても、好みの和音でなくても、

そこに音楽が存在するだけで自然と笑顔が生まれ、身体がリズムを取りはじめる。

これは、個人の記憶や好みに依存しないぶん、

とても本能的で、強力なもののような気がする。

 

これを絵でやろうとすると、とても難しい。

「この形(色)が目の前に存在するだけで誰でも嬉しい」というものは、あまりない。

例えば絵に描かれたオレンジがどんなに美味しそうでも、

それに手を伸ばしてかぶりつくことはできない。

でも音楽なら、そういう隔たりがなく、

オレンジの音が鳴ったなら、聞いた人は既にその手にオレンジを手に入れている。

そんな感じ。

 

もっとも原始的な絵を思い浮かべてみると、

それは地面に棒で図形をえがくようなものだと思うのだけれど、

人が何かをえがくとき、それはきっと何かを意味してしまう。

線を横に一本ひっぱったら、それは地平線や水平線に。

縦に一本ひっぱれば、それは木や人に。

丸をえがけば太陽や月に。

音楽を構成するパーツとしてのリズムや和音そのものに意味はないけれど、

絵を構成するパーツとしての図形には、何らかの象徴的な意味がくっついてしまう。

 

音楽は意味などなくても、そのまま受け取れるけれど、

絵は意味に変換されないと、うまく受け取れない。

抽象絵画が往々にして難解だと言われるのは、そういう理由もあるのだろう。

そういう意味で、絵というのは言葉と似ていて、

ほんらい「ものがたる」ためのツールなのかもしれない。

だって、私たちがこうして使っている漢字も、もともと絵だったんだものねえ。

2020/10/21

何度でも読みたい小説、というものがある。

間をおいて読み返すにせよ、何度も繰り返し読んでいるから、

当然筋は頭に入っている、結末もわかっている。それでも何度でも読む。

それはひとえに、その本の中の世界に遊びたいからだ。

 

こういう考えは、いわゆる「ネタバレ」というような概念とは対極にあるのだろう。

私は初めて読む本の場合でも、予め少し事前知識を入れておく。

いわば、すすんで「ネタバレ」をされにいく。

そうすると、筋に引き込まれすぎるのを防ぐことができ、

少し冷静にその作品の世界を見渡すことができる。

つまり、筋を追うのでいっぱいいっぱいのときには気づけない、

その世界の表現の鮮やかさ、濃やかさに身を浸すことができるのだ。

 

小説というのは、ひとつの世界の器である。

その世界で、例えば何も事件が起こらなくても、誰も変化/成長しなくても、

描き出されたその世界が美しければ、それだけで良いものだと思う。

 

ここで『草枕』から一節を引こうとして、

手元にある本を開き、該当の箇所を見つけついでに少し読んでいたのだけれど、

読んでいるうちに私の言いたかったことはすべてこの本に書いてある気がして、

尻切れだけれどここで書くのをやめにすることにした。

なんといっても、

『画だって話にしちゃ一文の価値もなくなるじゃありませんか』なのだ。

2020/10/20

御前は果たして美しさのために死ねるかと、

日々問われているような、そんな心持ちがする昨今である。

 

追えば追うほど何処にあるのか皆目検討もつかなくなり、

いままでやってきたことすべてが無駄、むしろ逆方向に走ってきたように思え、

絶望してごろりと寝転がると、ふと目の前にぶらさがってくる。

がばっと起き上がり、無我夢中でそのぶらさがってきた尻尾を捉えたかと思えば、

掴んだ感触を味わう間もなくするりと逃れる。

 

 

そんな、とらえどころのないもののために、私はすべてを賭せるのだろうか。

2020/10/12

ここに書かなかった間の日々は、いったいどこへ行ったのか?

私はたしかに、ひと月ぶんのパンとミルクティを消費して、

半月ぶん、いつもの眩暈に悩まされ、

月は欠け、満ち、そしてまた欠けた。

一体これらの日々はなんだったのか?

そしてこれからも続いていく、これらの日々は一体なんなのか?

 

 

2020/09/16

起きぬけに、ミントミルクティを淹れる。

風変りだけれど優しい味は、昨夜読んでいた作品の余韻。

 

作品の中の世界と、自分のいる世界とを結びつけるのが好きだ。

 

たとえば、ホットチョコレートを飲むときは、

エンデ『モモ』のあの朝食の場面を読み返すし、

料理をしなくちゃいけないけれどどうにもやる気がでないときは、

こまったさんシリーズのお料理の場面の頁を開く。

そうして、登場人物と一緒に行動してみると、

作品の世界が美しいぶんだけ、自分の内側まで透明になるような気がする。

 

そんなわけで、今朝はミントミルクティ。

どの作品かは内緒だけれど、

朝目が覚めたら、あの作品に流れる時間を、ちょっとだけなぞってみたくなったから。

2020/09/13

最初の記憶は何ですか。

そんな質問を受けて、ふと考えこんでしまう。

 

最初の記憶。

そう言われて思い浮かぶのは、

当時住んでいた家の門前道路で、ひたすらぐるぐる回っている私。

どうにも奇妙な記憶で、

今後幾度も自分はこの一瞬を思い出すだろう、

などと予言めいたことを感じていたのを覚えている。

私はそのとき5歳だった。

 

「三丁目のおうち」と呼んでいた、懐かしい我が家。

そこに住んでいるのはもう私たちではなくなってしまったけれど、

その家も、ぐるぐる回っていた道路も、今もまだ健在なはずだ。

 

はずだ、と書いたのは、10歳で新しい家に引っ越してから、

一度もその家に行っていないからだ。

家の新しい持ち主と母が知り合いなので、その家がまだ健在だということだけは

なんとなく知っているけれど。

 

引っ越し先の新しい家、通称「二丁目のおうち」には、

10歳から19歳まで住んでいた。

だから、三丁目にも二丁目にも、だいたい同じだけの期間住んだことになる。

それでもやはり、「三丁目のおうち」は私にとって特別なようで、

自分の実家といえばその家しかないと思っていたし、今も思っている。

たぶん、一番輝かしい、子どもが子どもでいられる期間を、

そこで過ごしたからではないかと思う。

だから、まるで知らない家のような顔をしてすましている「実家」を見るのが、

どうしようもなく怖かったのだ。

それで、近くを通りかかっても、努めてそちらに足が向かないようにしていた。

 

けれども、私ももう、自分で家庭を持ち、自分たちの家を持つ身になった。

それで、ようやく吹っ切れたのかもしれない。

今度帰省したら、夫と一緒に、今の「三丁目のおうち」を見にいってみるつもりだ。

 

かつて私たちが愛した家は、いったいどんな顔をして、

今の私を出迎えてくれるだろうか。

2020/09/10

ようやく暑さがやわらいで、夜風がすずしい日が続くようになった。

 

季節が刻一刻と目の前で移り変わっていくとき、

いつもよりすこし、自分の身の周りのことを意識する。

数歩先の未来や、置いてきた過去のことではなくて、

いま、ここ。

 

今日は食器棚を整理しながら、季節の飲み物について考えていた。

たとえば春は桜茶や、いちごジャムを添えたロシアンティ。

夏は麦茶や、つめたく冷やしたレモンティ。

秋ならアップルティやメープルティ。

冬は甘酒や、濃いめに淹れたホットココア。

 

私は食器道楽なので、各々の飲み物に合わせるカップやグラスについても、

もちろん同時に考えている。飲み物とカップのコーディネート。

大きさや手触り、温度の伝わり方ももちろん大事だけれど、

食器道楽としては、どうしても色や柄ゆきを最重要視してしまう。

たとえば我が家で「レモンティ用」としているアンティーカップは、青緑の柄。

スライスしたレモンを縁にひっかけると、とても涼やかな印象になる。

 

こういうこまごまとしたことを考えて悦に入っているときも、

「いま、ここ」に目が向いている。

近い未来のちょっとした心配ごとや、

まだ笑いとばせない、ほろ苦い過去から救ってくれるのは、

こういう小さなものだったりするのだ。