2021/03/09

 

5年ほど前までは、派手な花が好きだった。

バラやラナンキュラス、ガーベラのような、一本で主役になれる花。

でも今は、「お花屋さんで買ってきた」というより、

「野原で摘んできた」というような趣の花のほうに好みが傾いている。

たとえばセツブンソウ、クリスマスローズのような。

 

そういう花たちと、香りのよい葉を合わせて3~4種類、

がさっとまとめてブーケにするのが好きだ。

こどものころ、野原でシロツメクサを摘んで花冠をつくったり、

ツツジを摘んで水に入れ、色水をつくる遊びをよくした。

そんなときのことを、ふと思い出すからかもしれない。

2021/03/04

「移動すること」が苦手で、それはおおかた乗り物酔いをするせいだ。

自家用車、バイク、バス、電車、飛行機、そして船。

身近にある乗り物のおよそすべてに酔う体質で、

しかも一度酔ってしまうと、乗り物から降りてもその日じゅうはずっと気分が悪い。

酔い止めを飲むと、今度は倒れそうなほどの眠気に襲われる。

気持ちの良い眠気ではなくて、徹夜明けのような疲労まじりの重たく不快な眠気。

そんな調子だから、遠出や旅行をした先で楽しむことはとてもできない。

 

 

それでも、旅行好きな母につきあって、たまに遠出をすることはある。

そういうときは往復路の移動だけ一緒に行動し、現地での数日は別行動にする。

乗り物にも酔わず活動的な母は、現地からさらに乗り物に乗って観光地に繰り出す。

乗り物に酔う無精者の娘は、現地では宿からほとんど動かない。

窓の外を眺めながらお茶を飲んだり本を読んだり。

たまに思い立って宿の中を探検したり、宿周辺をちょっと散歩したりするくらい。

かつては、そんな過ごし方について、

「せっかく遠出してきたのにもったいない」という後ろめたさがあった。

でも今は、いつ誰に押し付けられたものだかも知れない価値観からくる非難を

頭から追い出すことができるようになって、

遠出をすることがすこし楽になった。

 

「観光」なのだから、見知らぬ土地での光を観られればそれで良いのだ。

そこでは日差しがどんなふうにきらめくのか、

どんな風が吹いて、どんな温度の雨が降るのか、

そこでは世界がどんなふうに見えるのか。

それさえわかればじゅうぶんだと、今は思うようになった。

 

私の知っているのは、自分の足で歩いていける範囲の、

とてもとても狭い世界のことだけだ。

それでも、それだからこそ、

私は自分のいる場所を、世界でいちばんの場所だと信じることができる。

2021/03/01

道を覚える、ということがどうにも苦手で、

一度行った場所に二度と辿り着けないことがよくある。

たいてい、ひとりで歩いているときに偶然見つけた場所で、

記憶を共有する証人がいないものだから、

時間が経つにつれて、本当にあった場所なのかどうかすらあやしくなってくる。

 

加えて今住んでいる街は、たとえ駅前であっても、

シャッターの下りた細い商店街や、薄汚れた暗い路地裏なんかがたくさんある。

道が4叉、5叉に分かれて入り組んでいるうえ、道自体もくねくね曲がっていて、

北に向かっていたつもりが、気づくと西へずれていたり。

そんなふうだから、ふらふらと歩いているうちに、

見たこともない風景のなかに立っている自分に気づくことがしょっちゅうだ。

 

そんな街で、数年前に偶然見かけたものが、今も心にひっかかっている。

それは円筒型の古いポストで、細い袋小路の行き止まりにあった。

なんとそのポストは、行き止まりのほうを向いて立っていた。

差し出し口のすぐ前は堅牢なコンクリート塀で、

差し出し口から塀までは10cmもなかった。

かつてはこのポストも路地に面していたはずだが、

区画整理か何かで道ごとなくなってしまったのだろう。

これでは集配どころか、投函すらままならないだろうと思うのに、

ポストにはしっかり、集配時間の書かれた紙がテープ留めされていた。

現役なのだ。

 

このポストにねじ込まれた郵便物は、いったいどこに届くのだろう。

ふと、そんなことを思った。

もしかして、かつてこのポストがあった路地、

それが存在していたころの時代に届いたりするのだろうか。

その路地も、そこに住んでいた人たちも、彼らの生活も、

今はどこにもなくなってしまったのに。

 

数日後、思いたって手紙を書いた。

もちろん、あのポストに投函するためだ。

82円切手を貼った手紙を握りしめて、おぼろげな記憶をたよりに、

曲がりくねった駅前の道を進む。

いくつもの角を曲がり、いくつもの砂利を蹴飛ばしたけれど、

あの袋小路は見つからなかった。

でも、見つからないほうがよかったのかもしれないと、

今は少しだけ安堵している。

 

 

2021/02/24

ここ数日、20度超えの暖かい日がつづいた。

まだ2月だというのに。

 

なんだか、太陽と月とが同時に出たような、

夜に真昼みたいな光に照らされているような、

どこか落ち着かなくて、後ろめたいような気持ち。

きょうになってようやくこの時期らしい気温に戻って、少しほっとした。

 

そんなきょう、お茶の時間に飲んだのはホットココア。

ザ・冬ののみもの、という印象があるホットココアだけれど、

きょう選んだカップは、春の季語でもある雉の絵付けがされたもの。

春を象徴するカップで、冬ののみものであるココアを飲む。

まさにここ数日の、おぼつかない心のありようを写し取ったようで、可笑しかった。

2021/02/17

ねえ、大きくなったら何になりたい?

こどものころ、幾度かそんな問いを投げかけられた。

この国で「成人」とされる年齢を超えて久しい今、

その問いを投げかけられることは、とんと無くなった。

 

では、成人という区切りを迎えた後は、もう「大きく」なれないのだろうか。

否。

周りから先述の問いを投げかけられなくなった今こそ、

私は自分で自分にこう問うてみたい。

「何になれたら、大きくなれたと実感できる?」

 

この問いに答えるためには、

現状のまま年齢を重ねただけでは到達しえない、

日々惰性でこなしているあれこれの延長線上にはない、

一皮剥けた自分の姿を、定義しなければならない。

そして同時に、自分の現状をも定義しなければ、

目標までの距離を正しく測ることはできないだろう。

 

今自分はどこにいて、どこに向かっているんだろう。

今の自分の延長線上には何が存在して、何が存在しないんだろう。

いつかできるようになりたいこと、挑戦してみたいこと、

一度は見てみたいもの、こどもの頃の夢。

たまにはそんなふうに、

過去、現在、未来の3人の自分でテーブルを囲んで、

お茶でも飲みながら対話してみるのも良いかもしれないと、思うのだ。

2021/02/10

いま私が修復している、海の見える小さな家では、

「紅茶の間」と「緑茶の間」をつくろうと思っている。

 

家の中の場所に名前をつけるとき、

「〇〇をするための場所」ではなくて「〇〇のある場所」となるように名付けたい。

DO定義でなくて、BE定義。

 

前者の例えとしては、LDKや寝室。

どれもハウスメーカーのパンフレットを開けば一瞬にして目に入る名前だけれど、

それを目にするたびに、みぞおちのあたりがキュッと苦しくなる。

 

リビングと名のつく場所では「テレビを観ろ」「くつろげ」、

キッチンと名の付く場所では「立ち働け」「料理をしろ」、

ダイニングと名の付く場所では「食べろ」、

寝室と名の付く場所では「寝ろ」、

更衣室と名の付く場所では「着替えろ」という命令が、

いつのまにか脳内に下されるせいだ。

その場所ではそれをしなくてはいけない。他のことはしてはいけない。

もちろんそんな決まりはないはずだけれど、いつのまにか名前が先行して、

思考と行動が制限されてしまう。

さらに、その部屋の「用」をより効率的にこなせるように配置された家具や設備が、

いっそうそれを助長する。

オフィスや店舗ならそれでもいいかもしれないけれど、家でそれをやってしまったら、

「家で暮らしている」というより「家に収容されている」みたいじゃないかしら。

 

いっぽう、「更衣室」でなく「衣裳部屋」だったらどうだろうか。

「着替えるための部屋」から「素敵な衣裳がたくさんある部屋」へと、

俄然イメージが転換されたのではないだろうか。

実際には薄汚れた作業着や部屋着のあるだけの空間だったとしても。

 

BE定義では、その部屋での「行動」ではなく、その部屋にある「もの」に注目する。

そこにある「もの」を使ってどう行動するかは、自由に選べるのだ。

 

 

 

 

 

 

2020/10/25

高畑勲さんが生前、インタビューの中で

「東京の街がいつまでたっても美しくならないのは、

東京を美しく描く画家がいないからだ」

といった趣旨のことを言っていた。

 

 画家が描き出す街。

それはもちろん、現実の街に似てはいるけれど、

普段私たちの目に映る街とは、どこかが違う。

たとえば。

日常にありふれているがために、特に注意を払っていないあれこれや、

特別な感慨なくやり過ごしてしまっている、一瞬。

そんなものにスポットライトが当たって、鮮やかに切り取られている。

画にするというのは、きっとそういうことだ。

 

そういえばミヒャエル・エンデも、

「一般の人たちが美を見出さないものから美を見出して、

一般に提示することが芸術家の役割だ」というようなことを言っている。

 

芸術家がその作品によって何かを切り取り、光をあてるということ。

それはきっと、未だ名前のないものに、名を与える行為に似ている。

 

人は、名前がないものを認識することができないし、

名前がないもののことを考えることもできない。

世の中に存在していることに、気づくことさえできない。

 

しかし、ひとたび「美」が名付けられると、

今度は身の周りの現実に、それと同じ「美」を見出すことができるようになる。

ほんとうはずっと、そこに「美」はあったのだけれど、

その「美」に名がついたことで、はじめて意識にのぼるようになる。

 

きっと、あらゆるものに、

目に映るものすべてに、美は宿っているのだろう。

その美に気づけるかどうかは、私たちの心ひとつなのだ。